ローデシア軍の編制
ローデシア紛争(1964 - 1979)の間、ローデシアが保持した戦力には、陸軍(Rhodesian Army)、空軍(Rhodesian Air Force)、国内軍(Internal Affairs)、国家憲兵隊(British South Africa Police)、防衛隊(Guard Force)がある。また、これに、鉄道警備隊(Rhodesia Railways Security Unit)と、刑務隊(Prisons Service)を加えることも出来る。
ローデシア陸軍は、特殊部隊旅団、第1旅団、第2旅団、第3旅団、第4旅団の5個旅団を編制していた。各旅団は記章に、特殊部隊旅団は蠍、第1旅団は象、第2旅団は犀、第3旅団は水牛、第4旅団は獅子、のデザインを採用していた。また、ローデシア空軍は、8個の飛行隊を編制していた。
ローデシア陸軍の旅団は、それぞれの担当地域を持っていた。それは、第1旅団:マタベレランドのブラワヨ、第2旅団:マショナランドのソールズベリー、第3旅団:マニカランドのウムタリ、第4旅団:ビクトリア州のフォート・ビクトリア、であった。また、ソールズベリーとミッドランズには地区司令部が設置された。
ローデシア軍は、ローデシア領土を、北西地域:Operarion RANGER、東地域:Operation THRESHER、北東地域:Operation HURRICANE、南東地域:Operation REPULSE、中部地域:Operation GRAPPLE、カリバ湖地域:Operation SPLINTER、西地域:Operation TANGENT、首都ソールズベリー地域:SALOPS、という8つの作戦地域に分けていた。

ローデシア軍の前身は、ローデシア・ニヤサランド連邦軍であった。これは、1963年6月28日から7月3日にかけてビクトリア・フォールズにて開催されローデシア・ニヤサランド連邦の解体に関する会議の場で、連邦軍のローデシアへの移譲が決定されたことによるもので、この連邦軍の移譲により、ローデシア軍は一方的独立宣言の後も軍事力を維持することが可能となったのである。
また、1979年3月の「内部解決」直後には、UANCの軍事部門として「政府軍補助部隊」が編制された。政府軍補助部隊の元になったのはムゾレワの私兵だった。政府軍補助部隊の兵力は、13,000名ないし25,000名で、1979年9月にはローデシア軍に編入された。
ローデシア軍総司令官は、ピーター・ウォールズ中将(George Peter Walls)だった。ウォールズ中将は、マラヤ動乱でマラヤ斥候隊・C中隊(後に第22SAS連隊・C中隊と改称)の指揮官を務めた人物で、ローデシアの一方的独立宣言の後、ローデシア軍の総司令官に任命された。
ウォールズ中将は、ローデシアが崩壊し、ジンバブエとして独立した後も、ムガベ政権から政府軍最高司令官に任命され、1980年7月に辞任するまで、ジンバブエ軍の最高司令官を務めた。また、ローデシア軍は、生物兵器を使用したという不名誉な記録を持つ。また、民間人に対する殺傷も多く報告されている。
ローデシアの陸軍
Rhodesian Combined Operations
ローデシア統合作戦本部(Rhodesian Combined Operations, 以下COMOPS)は、1977年に構想が承認され、ローデシアの一方的独立が終焉するまで、ローデシア軍の全作戦を指揮する中枢だった。統合作戦本部長はローデシアSAS・C中隊の初代中隊長ピーター・ウォールズ中将だった。
COMOPSの本部は首都ソールズベリーに置かれ、ローデシア陸軍、ローデシア空軍、BSAP、DIAの代表者が参加し、ローデシア中央情報局(Central Intelligence Organaization, 略称CIO)と連携をとりながら軍事活動と警察活動の調整を行った。
COMOPSはローデシア軍の指揮系統において、重要な機関だったが、1979年4月12日に実施された、ZAPU議長ンコモの暗殺を目的としたバスティーユ作戦は、イギリスがCOMOPSに潜入させたスパイからイギリスに情報が漏れ、ンコモ暗殺に失敗することになった。
Rhodesian Light Infantry

ローデシア・ライト・インファントリー(Rhodesian Light Infantry, 以下RLI)は、ローデシア軍で初めての白人のみで編制された大隊として、1961年2月1日に、RLI第1大隊が創設された。駐屯基地はソールズベリーのクランボーン兵舎だった。最終的に、RLIは、3個大隊(第1コマンドはザ・ビックレッド、第3コマンドはラバーズと呼ばれた)と1個火力支援部隊を持つ、約2000名の連隊となる。
また、RLIは、ヘリコプターとCOIN機を装備していたため、必要に応じて素早く火力支援や兵員輸送を実施することが可能だった。
部隊のマスコットはチーターで、チーターのように、素早い行動で敵を攻撃することを、部隊の信条としていた。部隊の行進曲は「聖者が街にやって来る」だったため、「The Saints」が部隊の愛称となった。また、隊員の中で3分の1を、白人傭兵が占めていたため「ローデシア外人部隊」の異名で呼ばれていた。
設立当初は通常の歩兵連隊であったが、1965年には、ローデシアの国土で広範囲に出没するゲリラに対抗するため、編制と訓練を通常の歩兵大隊のものから、コマンド部隊向けの高度な物に変更し、グリーンベレーを着用することになった。
そうやって、エアボーンの訓練を重ねていった結果、特殊部隊化していった。そのような事情のため、RLI隊員の多くは、エアボーンや迫撃砲手などの技能を持っており、ローデシア軍の中核を担う優秀な部隊であった。
RLIはファイヤー・フォース攻撃を得意としていた。ファイヤー・フォース攻撃とは、ゲリラ目撃情報に即応して、部隊をヘリボーンかエアボーンで送り込む戦法で、4名編成のスティックと呼ばれるパトロール隊を単位にして実施されていた。
スティックが4名編制だったのは、ローデシア軍が使用していたヘリコプターの定員が4名だったからである。1つから複数のスティックは、ヘリコプターに搭乗した士官により上空から指揮され、スティックのリーダーは下士官が勤めた。
ローデシア軍が使用していたヘリコプターは、機体とパイロットを南アフリカから貸与されたものだった。しかし、1975年2月11日に南アフリカ軍がローデシアから撤退したため、ヘリコプターが使えなくなり、ファイヤー・フォース攻撃は、ダコタ輸送機からのエアボーンが主な攻撃方法となった。
ファイヤー・フォース攻撃では、通常のエアボーン作戦とは異なり、可能な限り敵の近くに降下することを狙う。そのため、敵の射撃目標となりやすい滞空時間を減らすため、超低空からのパラシュート降下を実施しており、それはローデシア軍のお家芸だった。また、隊員が作戦中にパラシュート降下を拒否した場合、軍事裁判で罰せられることになっていた。

RLIのローデシア紛争初期における勤務態勢は、30日間の作戦行動と20日間の休暇だった。しかし、紛争が激化するにつれて、5週間の作戦行動と2週間の休暇となった。こうして、RLIの負担は強まるばかりだったが、部隊の士気は極めて高く、閲兵したローデシアの首相イアン・スミスは、"The Incredibles"と絶賛した。
RLIは、ローデシア軍が実施した主要な作戦の大部分に参加し、ローデシア陸軍の戦力の中核を担っていた。しかし、ローデシアSASやセルース・スカウツとは異なり、ムガベやヌコモの暗殺作戦には参加していなかったため、ローデシア崩壊後に訴追されることはなかった。
1980年にムガベ政権発足後、RLIは解散式典を行って解散した。RLIの象徴だった兵士像"The Trooper"は、破壊を逃れるため、南アフリカへ移送され、現在はイギリスの軍事博物館で展示されている。
Rhodesian African Rifles

ローデシア・アフリカン・ライフルズ(Rhodesian African Rifles, 以下RAR)は、ローデシア軍のアフリカ人兵士部隊で、黒人の下士官・兵卒と、白人将校で編成されていた。これは、植民地軍の一般的な編制方式であった。兵力は4個大隊だった。また、RARはローデシア軍の、もっとも古い連隊の一つであり、その起源は、第1次世界大戦中の1916年5月1日に結成された"1st Rhodesian Native Regiment"にまで遡る。
RARは、第2次世界大戦中の1940年に再編成され、"British South Africa Police Askari Unit"に所属する、黒人の下士官・兵卒が配属されている。第2次世界大戦中、RARはビルマ(現ミャンマー)で任務に就いていた。また、中央アフリカ連邦軍の一部として、スエズ紛争とマラヤ紛争にも参加している。そして、ローデシア紛争において、RARは、ゲリラ兵の殺害第1号の戦果をあげている。
RARの訓練期間は、当初6ヵ月間だったが、後に3ヶ月間へと短縮された。このように、訓練期間は短縮されたが、訓練自体の質は高められ、1978年には空挺降下訓練を開始し、超低空降下を得意としていた。
また、行政官庁職務法の規定により、アフリカ人公務員は下級職にしか就くことは出来なかった。それと同様に、軍隊や警察でも昇進にあたり差別的待遇が存在し、軍隊では下士官、警察では警部補以上に、アフリカ人は昇進することが出来なかった。そのため、RARにおいても、同部隊は白人将校によって指揮されていた。
RARの徽章は、アフリカ人部族の戦士が持つ盾と槍をデザインに採用しており、連隊歌は"Sweet Banana"という。
- Sweet Banana
- A, B, C, D, E Headquarters I will buy you a sweet banana
- A, B, C, D, E Headquarters I will buy you a sweet banana
- Banana, Banana, Banana, I will buy you a sweet banana
- Shield spear and knobkerrie, soldiers in war and peace
- In war she fights with bravery, I will buy you a sweet banana
- One Two and the Depot RAR-O, I will buy you a sweet banana
- One Two and the Depot RAR-O, I will buy you a sweet banana
- Banana, Banana, Banana, I will buy you a sweet banana
- Shield spear and knobkerrie, soldiers in war and peace
- In war she fights with bravery, I will buy you a sweet banana
- Rhodesia, Burma, Egypt ne Malaya takarwa tika kunda
- Rhodesia, Burma, Egypt ne Malaya takarwa tika kunda
- Muhondo, Muhondo, Muhondo Inorwa no kushinga
- Nhowo pfumo netsvimbo ndiyo RAR-O
- Muhondo ne runyararo ndichakutengera sweet banana
- A, B, C, D Support Headquarters ndidzo ndichapedza hondo dzoze
- A, B, C, D Support Headquarters ndidzo ndichapedza hondo dzoze
- Banana, Banana, Banana ndichakutengera sweet banana
- Nhowo pfomo netsvimbo ndiyo RAR-O
- Muhondo ne runyararo ndichakutengera sweet banana
Rhodesia Regiment

ローデシア・レジメント(Rhodesia Regiment, 以下RR)は、ローデシア軍の一般的な歩兵部隊で、兵力は8個大隊。600〜700の白人と、黒人およびカラード(白色人種と有色人種の混血)の予備隊で編成されていた。この連隊の歴史は古く、1895年5月29日に編成された"Rhodesia Horse"にまで遡ることが出来る。
RRは、第2次世界大戦に参戦した戦功により、1947年にはロイヤル・ローデシア・レジメント(Royal Rhodesia Regiment)となるが、1970年の英連邦脱退により、RRへと改称される。
RRの編制は、各大隊の配下にある中隊が、独立守備中隊制度により、ローデシア各地に配備されていた。この独立守備中隊は、兵員のほとんどが徴募兵による定員合わせであったため、士気が低かった。そのため、独立守備中隊の多くは、他地域の守備隊との連携を行わず、戦闘力に問題があった。また、独立守備中隊のアフリカ人兵士の中には、RRの徽章では無く、ロイヤル・ローデシア・レジメントの徽章を付ける者もいた。
このRRも、1977年にはオートバイ部隊が新設されたり、空挺装備が与えられエアボーンを行ったりするようになる。これらの新設された部隊は、独自の行動や他部隊との共同作戦に参加し、めざましい活躍を見せた。また、RRはフランス軍風の、制服や装備を採用していたようである。
Rhodesian Armoured Car Regiment

ローデシアン・アーマード・カー・レジメント(Rhodesian Armoured Car Regiment, 以下RACR)はローデシア軍唯一の機甲部隊である。RACRの起源は、1938年に編成された、南ローデシア・リコナサンス・カー・レジメント(Southern Rhodesian Reconnaissance Car Regiment, 以下SRRCR)で、SRRCRは逐次増強されて、1941年2月には南ローデシアン・アーマード・カー・レジメント(Southern Rhodesian Armoured Car Regiment, 以下SRACR)と改称される。
SRACRは第二次世界大戦中の1942年11月に、南アフリカ第6師団に編入されて、北アフリカで戦闘を行った。戦後には解体されたが、1947年に臨時部隊として再編成され、ソールズベリー、ブラワヨ、グウェロにそれぞれ1個中隊が駐留した。1956年には再び解体されて、車両は全てロイヤル・ローデシア・レジメントB中隊に引き渡された。
1961年には、装甲車部隊「セルース・スカウツ」として再編され、コンゴ動乱で不安定となったコンゴとの国境地帯に派遣された。しかし、1963年12月には、ローデシア・ニヤサランド連邦崩壊にともない、部隊は再び解体されて、車両はローデシアとザンビアで均等に配分された。
1972年7月1日、RACRはロークン・スミス少佐の下で再び結成され、キング・ジョージ六世兵舎に基地を置いた。また、RACRは全隊員が、予備役隊員で編成されていた。
RACRは、3個戦闘中隊と、1個指令中隊で編成され、各中隊はフェレット装甲車4両を装備する、4個小隊で編成されていた。兵員数は300名から500名だった。RACRの制服は英軍機甲部隊と同じ黒いベレー帽に、ローデシア迷彩のジャンプスーツだったが、ウインクラー少佐の発案により、黒色のジャンプスーツを着用したため、「ブラック・デビル」(The Black Devils)と呼ばれ、恐れられていた。また、アーマードカー・レジメントの隊員達は自らを、「反逆者」(REBEL)と呼んでいた。
RACRの徽章は山羊をあしらったもので、部隊のモットーが書かれていた。部隊のモットーとはンデベレ語で「ASESABI LUTHO」と言い、意味は「我らに恐れは無い」となる。RACRの任務は、歩兵の支援に、機動性を生かしての越境攻撃、輸送部隊の車列警護など、非常に多岐にわたった。
主な装備は、フェレット偵察車とエランド装甲車(仏パナール装甲車の南ア製コピー)などだった。エランド装甲車は、南アフリカ軍がローデシアに持ち込んだものだった。1975年2月11日に南アフリカ軍がローデシアから撤退することとなったため、ローデシア軍は、南アフリカ軍がローデシアに持ち込んだエランド装甲車を、20両買い取ったのだった。
フェレット偵察車やエランド装甲車以外にも、民間車両を改造した装甲車や鹵獲した車両も使用していた。1979年10月には、南アフリカから8両のT55戦車を供与されて、E中隊を編成した。このT55戦車は南アフリカが鹵獲したものだった。
Rhodesian Artillery

ローデシア砲兵連隊(Rhodesian Artillery)は、1939年4月に結成された、ローデシア砲兵訓練隊に起源を持つ。ローデシア砲兵訓練隊の砲兵達は、英連邦の一員として第2次世界大戦に参戦した。第2次世界大戦後、1947年9月に南ローデシア砲兵隊が編制され、1956年に解散するも、1959年に再結成する。
この、南ローデシア砲兵隊は、全員が志願兵だったため「総督府部隊」と呼ばれていたが、1961年には、正式にローデシア砲兵連隊へと改称された。また、1972年以降、ローデシア砲兵連隊は、火力支援を行う一般的な砲兵としてだけではなく、砲兵戦闘隊として直接戦闘にも参加した。
Rhodesian Women's Services

ローデシアン・ウーマンズ・サービス(Rhodesian Women's Services, 以下RWS)は、ローデシア軍の女性兵士部隊である。慢性的な兵力不足に悩まされたローデシア政府は、1975年の初頭に女性兵士を採用することを議会にて採決した。それを受けて、ローデシア陸軍は、1975年6月3日には女性兵士35名の訓練を開始した。
RWSは、女性兵士が兵役に耐えうることを証明すべく、1977年7月1日を目標に訓練を継続し、1977年11月30日には、ローデシア軍初の女性将校が任官され、女性が兵役に耐えうることを証明した。ローデシア軍の女性将校は、男性将校と同様の職務を要求されていたが、勤務は前線勤務ではなく後方勤務であった。
RWSの制服は、男性と同様のローデシア迷彩服と制服以外に、白色の夜会服も採用されていた。また、部隊歌には「ハロー・ドーリー」の曲を使用していた。
Psychological Operations Unit
心理作戦部(Psychological Operations Unit)は、ローデシア軍における心理戦を担当した部隊であり、ローデシアのアフリカ人住民とアフリカ人解放組織を離間させるなどの任務を実行していた。
作戦内容は、アフリカ人解放組織の悪宣伝を印刷したビラの配布から、炭疽菌による生物戦の提案など、多岐に渡った。心理作戦部が炭疽菌による生物戦を計画したのは、近隣諸国から潜入したゲリラ部隊が、ローデシアに伝染病を持ち込んだと、アフリカ人住民に思わせることで、ゲリラ部隊への協力をさせないことだった。
ローデシアの保安部隊
Internal Affairs

インターナル・アフェアーズ(The Department of Internal Affairs, 以下DIA)はローデシア内務省(The Ministry of Internal Affairs)の軍事部門であり、ローデシア国内軍とも言える。DIAには航空部隊(Internal Affairs Air Wing)や騎乗歩兵部隊(Internal Affairs Mounted Unit)も存在していた。
DIAの白人職員は、アフリカ人部族の法や習慣について幅広い訓練を受け、最低でも1つは部族の言語を話せた。そのため、DIAはアフリカ人の部族文化や慣習に通じているエキスパートとして知られており、ローデシア紛争で重要な役割を果たした。保護村の警備を担当した準軍事組織であるガード・フォースも、DIAの指揮下にあった。
DIAは保護村を警備するキープと呼ばれる基地に駐留していた。保護村とは1973年の中頃から始まり、国境周辺などローデシア軍の支配権が確立していない村のアフリカ人を、ローデシア軍が建設した施設に移住させるというものだった。保護村とキープはゲリラ部隊から頻繁に攻撃を受けたため、DIAはローデシア軍の中で最も多くの死傷者を出した。
また、保護村周辺を囲む防護壁や道路には、頻繁に地雷がしかけられたため、地雷を発見し戦闘工兵に連絡することもDIAの任務だった。そのために、DIAには対地雷処理車が配備された。DIA隊員は地雷に対処するための訓練を受けていたが、多くのDIA隊員が地雷によって死傷した。
DIAは戦闘だけではなくアフリカ人市民と接触する機会が多いことから、アフリカ人社会に対する情報収集も実施しており情報機関としての側面も持っていた。DIAの現場職員は、アフリカ人市民の民族意識が高まっていることを、DIA上層部に報告していたが、DIA上層部はアフリカ人市民の民族意識を十分に認識することがなかった。このことは、ブリティッシュ・サウス・アフリカ・ポリスの情報部門であるスペシャル・ブランチのアフリカ人市民の民族意識が高まっているとの査定と、DIAの査定が食い違っていることからも伺うことが出来た。しかし、DIAの査定は間違っていたにも関わらず、DIAの上級職員は政治力が強かったため、スペシャル・ブランチの査定ではなく、DIAの誤った査定が一般的に受け入れられていた。
Admin Reinforcement Units
アドミン・リインフォースメント・ユニット(Admin Reinforcement Units, 以下ARU)は、DIAの中から選抜された兵士に追加訓練を受けさせて編制した部隊だった。ARUの隊員は対ゲリラ訓練を受けており、DIAのエリート部隊だった。また、ARUはAトループからHトループの8個のトループが編制されていた。
また、ARUの戦力を強化するため、ローデシア・アフリカン・ライフルズやセルース・スカウツ、ローデシア・ディフェンス・レジメント(Rhodesian Defence Regiment)から少人数の隊員が送り込まれていた。
Guard Force

ガード・フォース(Guard Force)は、ローデシア陸軍の部隊ではなく、DIAの指揮下にある独立した組織で、保護村(Protected Village)と呼ばれるアフリカ人を収容する施設を警護するために編成された部隊だった。
当初、保護村の警備はインターナル・アフェアーズが単独で担当していたが、保護村が多く建設されるようになると、インターナル・アフェアーズだけでは手が回らなくなったため、ガード・フォースが編制されることになった。
ガード・フォースは、装備と訓練が不十分であり、他のローデシア軍の部隊よりも、戦闘力が低い三線級部隊だった。そのため、ガード・フォースは、劣った部隊との扱いを受け、中傷されていた。
しかし、そのガード・フォースに課せられた任務は厳しいもので、兵士達は、1週間のうちに、正規の部隊が数ヶ月で経験するよりも過酷な戦いを経験する事となった。
ローデシアの特殊部隊
Rhodesian Special Air Service

ローデシアSAS(Rhodesian Special Air Service)は、全員が白人で構成された、ローデシア軍の代表的な特殊部隊である。ローデシアSAS・C中隊(C Squadron, 後に第1SAS連隊に改称)の起源は、1950年11月に結成された、南ローデシア極東義勇隊にまで遡ることが出来る。
南ローデシア義勇隊は、1951年3月、英連邦の一員としてマラヤ動乱に派遣される。そこで、カラヴァート中佐を指揮官として新たに編成された、マラヤ斥候隊に編入され、マラヤ斥候隊・C中隊と改称される。
1952年にマラヤ斥候隊は、第22SAS連隊と改称された。第22SAS連隊・C中隊はピーター・ウォールズ少佐の指揮下、1952年12月までマラヤで戦ったが、その後ローデシアに戻り、まもなく解体された。
その後、1961年初めに北ローデシアのヌドラを拠点として、第22SAS連隊・C中隊の元隊員を中核として、ローデシアSAS・C中隊が編成される。編成されたローデシアSASはコートニー・ウェルシュ少佐の指揮下、ローデシア・ニヤサラン連邦の所属部隊となる。
しかし、1963年にローデシア・ニヤサランド連邦(中央アフリカ連邦)が崩壊したため、多くの隊員が除隊する。1963年11月に残った38名の隊員は、ダドリー・コベントリー少佐に率いられて、南ローデシアに移動することとなる。

1964年1月20日、南ローデシアに移動したローデシアSASは、ローデシア陸軍の部隊として再編成が行われ、ブライアン・ロビンソン少佐の指揮下で、ザンビアやモザンビークへの越境作戦を実施し、ZIPRA(ジンバブエ独立人民共和国軍)やZANLA(ジンバブエ・アフリカ民族解放軍)に大きな打撃を与えた。また、そのような越境作戦にあたって、ローデシアSASはポルトガル軍とも共同作戦を実施していた。
その後ローデシアSASは、3個中隊を抱える部隊にまで拡大され、1978年6月にはガース・バレット中佐を連隊長として、第1SAS連隊に名称が改められた。
また、第1SAS連隊は、ローデシア中央情報局が組織した架空の組織だった、モザンビーク民族抵抗運動"RENAMO"を、モザンビークの政権を握ったモザンビーク解放戦線"FRELIMO"と戦える組織になるまで訓練し、RENAMOと共にモザンビークへの越境攻撃を行った。
ローデシアSASは、アフリカ人解放組織との戦闘以外にも、破壊活動や誘拐・暗殺、反政府ゲリラ(RENAMO)の訓練なども手がけており、ローデシア軍の最精鋭部隊であった。そのため、ローデシアSASの隊員には、常人を遙かに超える体力はもちろんのこと、状況を正しく認識し柔軟に行動するため、高度な知的能力も要求された。
ローデシアSASは最初、英SASと同様に既存の部隊から隊員を募集していた。ローデシアSASはローデシア・ライト・インファントリーから隊員を募集したが、ローデシア・ライト・インファントリーの指揮官から抗議を受けたため、徴兵によって集められた新兵から直接募集を行った。
ローデシアSASの訓練は非常に厳しく、訓練終了後に実際の戦闘に参加し実力を示した者のみが、ローデシアSAS隊員として認められ、ベレー帽と空挺章を授与された。ローデシアSAS隊員になれた者は志願者の25%だった。
ローデシアSASの母体となった、イギリスのSASでは、ローデシアSASの戦功を称えるため、現在でもローデシアSASの元になったC中隊の名称を永久欠番のように残している。また、ローデシアSASのモットーは、英SASと同じく"Who Dares Wins"であり、ベレー帽の色や部隊の徽章も、英SASと同様の物を使用している。
また、ローデシアSASには空挺章(パラウイング)に関する独特の習慣がある。空挺章とは、厳しい訓練を耐えて空挺隊員になった者だけが、付けることを許される記章で、通常は右肩に付ける。しかし、ローデシアSASでは、戦功が認められた者には、空挺章を胸に付けることを許可した。これを「ウイング・オン・チェスト章」と呼んだそうである。
ローデシアSASの隊員数は、平均すると200名ほどで、予備役隊員を招集しても230名ほどだった。ローデシアSASは世界的にも希にみる優秀な特殊部隊だったが、1980年12月31日に、解散することとなった。ローデシアSASの解散式では、すべてのローデシア軍将兵の中で最多の勲章を受勲した、最後のローデシアSAS司令官が連隊旗を降ろし、部隊の歴史を閉じた。また、ローデシアSASの解散にあたり、イギリス陸軍のSAS連隊から、解散を惜しむ電報が届けられた。
ローデシアSASは、暗殺や誘拐、破壊活動などの作戦を実施していたため、未だに氏名などの個人情報が明かされていない人物が存在している。ローデシアSAS最後の司令官も、その一人で、ローデシア軍最高の勲章である、武勇大十字章(Grand Cross of Valor)を受勲しながら、氏名不詳とされている。そのような人物の中には「幽霊少佐(Phantom Major)」と呼ばれている人物も存在する。この幽霊少佐は、Bスコードロンの指揮官だった、グラハム・ウィルソン少佐(Grahame Wilson)だと推測される。
D Squadron

ローデシアSAS・D中隊(D Squadron)は、南アフリカ軍兵士によって編制された部隊で、1978年1月に結成された。この部隊の起源となったのは、南アフリカ軍の特殊部隊結成計画だった。
1967年に南アフリカ軍は、ローデシアSASと同様の能力を持った特殊部隊を設立すべく、ウィレム・ロウ中将の発案の元、ヤン・ブレテンバッハ大尉と数名の将兵をローデシアSASの選抜コースへと送り込んだ。
ローデシアSASの選抜コースと継続訓練を終了したメンバーは、1969年にビアフラ戦争へ参加し、その後、1972年4月にはブレテンバッハ大尉の元で、南アフリカ初の特殊部隊「第1偵察コマンド(1 Reconnaissance Commando, 以下1RC)」が結成された。
1974年、1RCとローデシアSASは共同作戦を実施し、1978年1月には1RCがローデシア国内に基地を設置することとなった。そのため、南アフリカ軍であることを秘匿するため、ローデシアSAS・D中隊として作戦に従事した。
作戦中に、6名の隊員が戦死したが戦功により、D中隊所属の隊員の何人かは、南アフリカ軍の最高勲章である"Honoris Crux"を受勲した。戦死した隊員の名前は、ローデシアSASの記念碑に刻印された。多くの作戦を成功に導いたD中隊は、1978年6月に南アフリカに帰還した。
このように、ローデシアSASを起源に持つ、第1偵察コマンドが後の南アフリカ特殊部隊旅団レキース(South African Special Forces Brigade, 通称Recces)となるのだった。
Selous Scouts

セルース・スカウツ(Selous Scouts)は、20世紀初頭にアフリカで活躍したハンターで探検家のフレドリック・セルースに因んで命名された部隊で、規模は正規兵約900名、予備役兵約250名だった。セルース・スカウツは、1973年に創設され、指揮官にはロン・レイド・デイリー少佐が任命された。
セルース・スカウツのシンボルマークは鷹目の鳥である鶚(みさご)だった。また、モットーは、ショナ語で"PAMWE CHETE!"と言い、意味は「みんな一緒に!」となる。セルース・スカウツが、他のローデシア軍特殊部隊とは異なり、多人種によって編制されていた部隊であることを、象徴するモットーと言える。
1978年9月17日には、他の部隊の空挺章と区別するため、セルース・スカウツは独自の空挺章を制定した。これは、ブロンズ製で裏面にシリアル・ナンバーが刻印されていた。シリアル・ナンバーのNo.1はロン・レイド・デイリー少佐で、No.461まで支給されている。
セルース・スカウツは、ローデシア軍の中でも、非常に特殊な任務を遂行する部隊だった。ゲリラに偽装したセルース・スカウツは、敵支配地域内でゲリラを追跡(コンバット・トラッキング)しゲリラを発見したら、強襲部隊に連絡する。連絡を受けた強襲部隊は、ゲリラ部隊の進行方向前方にパラシュート降下し、セルース・スカウツと挟撃する作戦を実施していた。
他には、セルース・スカウツ所属の黒人兵士をゲリラに変装させて、敵ゲリラに接触させ、別の日時に会合を約束し、その会合にヘリコプターや車両に搭乗した機動急襲部隊を送り込み、敵を殲滅する作戦を遂行していた。
ローデシア紛争末期には、車両部隊によってゲリラ部隊の追撃と攻撃を行う、「クラン」と呼ばれる戦術を実施した。これは、偵察によって得られた情報に基づき、車両の速度をいかしてゲリラ部隊に突撃をしかけて攻撃するというものだった。
セルース・スカウツは、ゲリラに偽装するなど任務が特殊であるため、白人隊員は白人であることを悟られないよう、肌を黒く塗り、髭を伸ばし、帽子を被ったりして変装していた。そのため、他の部隊と異なり、作戦行動中の服装はかなり自由だった。訓練用のTシャツにショートパンツというような服装で作戦行動する者も多かった。また、セルース・スカウツは非常に軽装備で、逃げるゲリラを素早く追跡するため、限られた武器・弾薬と水だけを携行していた。

セルース・スカウツは、当初、ローデシアSAS、ローデシアン・ライト・インファントリー、ローデシアン・アフリカン・ライフルズなど、既存の陸軍部隊から募兵していたが、他部隊からの抗議により、一般からの募兵に切り替えた。また、セルース・スカウツには、ローデシア軍治安部隊の説得によって寝返った元ゲリラも多く参加していたが、1975年4月に元ゲリラの兵士1名が、他の隊員を射殺して逃亡する事件が起きている。
一般からの募兵方法は、選抜コースに合格した者のみを採用する方式で、選抜コースは"Endurance"と"Dark Phase"の二段階であった。"Endurance"は岩を満杯に入れたリュックサックを背負わせて3日で100kmの行軍と、17日間に渡って、砂を満杯に詰めた砂袋を担いで12kmのランニングを課せられた。その後、通常の食料を支給せず、14日間のサバイバルトレーニングを課した。ここまでの選抜トレーニングに耐えた者だけがセルース・スカウツの予備役兵となれた。さらに正規隊員となるためには、偽ゲリラに扮するための特別訓練である"Dark Phase"に耐えなければならなかった。
一般募集で様々な人種が入隊したため、セルース・スカウツは、ローデシア軍部隊の中で、もっとも人種の多い部隊となる。また、厳しい訓練の成果で、セルース・スカウツはローデシアの崩壊までに、直接・間接を合わせてゲリラ総死者数の68%に関与し、戦死者はわずかに40名足らずという、非常に優秀な部隊であった。また、セルース・スカウツは、ローデシアの情報機関と密接な関係にあり、生物兵器の実験および使用などにも従事していた。
セルース・スカウツは、数々の恐ろしい任務を遂行した部隊であったため、ローデシア崩壊後、ジンバブエのムガベ政権から解散を命じられた。ローデシアSASなどとは異なり、セルース・スカウツの解散については、公式発表も解散式も無く、ある日突然に消滅したのだった。
このセルース・スカウツが編み出した数々の戦術は、南アフリカの、南西アフリカ警察・対不正規戦部隊(SWAPOL-TIN, 通称KOEVOET)に引き継がれ、より発展強化されていった。
Grey's Scouts

グレイズ・スカウツ(Grey's Scouts)は、1975年7月に、カーク大尉の主導によってソールズベリー近郊のインコモア兵舎で創設された騎乗歩兵連隊で、部隊名は第一次マタベレ戦争(1893年)の英雄だったジョージ・グレイに因んでいる。
グレイズ・スカウツの起源となった騎兵隊は、1896年3月26日に、ジョージ・グレイ大尉が編成した騎兵隊で、隊員のF.W.バクスターは、ビクトリア十字勲章(Victoria Cross)を授与されている。この騎兵隊は、1896年6月22日に編成された、ブラワヨ野戦団に吸収されて消滅した。
現代の一般的な騎兵連隊は、過去に騎兵部隊だった名残を名称に留めているだけで、装甲車両を装備した機甲部隊であることがほとんどだが、ローデシア軍のグレイズ・スカウツは、実際に馬に乗って作戦行動を行う、騎乗歩兵連隊だった。
騎乗歩兵は、車両が進入できない地形にも進入でき、また、歩兵に比べて騎兵は、重い荷物を携行し、歩兵よりも早い速度で、長距離の移動が可能であったため、叢林地帯での戦闘で、騎兵はいまだに有効であることをローデシア軍は示した。
グレイズ・スカウツは、その機動力により、1日に40km四方に渡ってパトロールを実施することが出来た。そのグレイズ・スカウツが使用した馬は、サラブレットと在来種の雑種が主だった。また、隊員の体重制限があり、上限は80kgであった。
グレイズ・スカウツの馬には、150kgの荷物を運ぶ能力を求められ、兵士と共に4ヶ月半の訓練を受けた。その間、馬には、銃声に驚かないようにする訓練が重視された。隊員は、馬上からの射撃技術や、馬具を修理する訓練が行われた。
グレイズ・スカウツには、3個戦闘中隊と、1個支援中隊により編成されていた。1個中隊は48名編成のトループ4個で編成されていた。支援中隊には、偵察部隊や迫撃砲を装備した火力支援部隊、軍用犬分隊も存在していた。
グレイズ・スカウツの管轄は、主にビクトリア湖周辺でのパトロールだったが、大規模な越境作戦に参加する場合は、作戦地域まで馬で移動せず、馬をトラックに乗せて、作戦地域付近まで移動した後に、馬に乗り換えた。また、グレイズ・スカウツの馬は、兵員輸送以外にも、国境警備施設を建設する際には、物資の輸送などにも使用されていた。
ちなみにローデシアでは競馬も開催されていて、ローデシア初の競馬は1891年にソールズベリーで開催された。
ローデシアの空軍
Rhodesian Air Force

ローデシア空軍(Rhodesian Air Force)は英領南ローデシア時代には、ロイヤル・ローデシア空軍(Royal Rhodesian Air Force)だったが、イギリスに対する一方的独立宣言後、1970年にローデシア空軍へと改称された。ローデシア空軍は、8つの飛行隊を編制していた。ローデシア空軍の指揮や階級の体系は、イギリス王室空軍(British Royal Air Force)を基にしていた。
ローデシア空軍の航空基地はニュー・セーラム(New Sarum Air Force base)とソーンヒル(Thornhill Air Force base)の2ヵ所で、前進飛行場(Forward Airfields, 以下FAF)はワンキー(FAF1 Wankie)、カリバ(FAF2 Kariba)、センテナリー(FAF3 Centenary)、マウントダーウィン(FAF4 Mt.Darwin)、ムトコ(FAF5 Mtoko)、チパンガ(FAF6 Chipinga)、バッファローレンジ(FAF7 Buffalo Range)、グランドリーフ(FAF8 Grand Reef)、ルテンガ(FAF9 Rutenga)の、9つが存在した。
ローデシア空軍は規模の小さな空軍で、1965年にはたった1,200人の一般人から成っていた。ローデシア紛争が激化した時には、あらゆる人種からなる2300名を擁するようになったが、実際に戦闘に関わるパイロットは、たったの150人だった。
しかし、この150人のパイロットは、ローデシア空軍の持つ全ての航空機を操ることが出来たため、ローデシア空軍に多大なる柔軟性をもたらした。パイロット達は、全航空機に精通しておくためという理由もあり、またさらに危険な出撃をする仲間のパイロットと交代するといった理由もあり、様々な部隊を持ち回った。
ローデシア空軍の攻撃力は、空軍を保有していないアフリカ人解放組織から、大変恐れられていた。そのため、ローデシア政府とアフリカ人解放組織が和平に向けて会談したランカスターハウス会議において、停戦協定が話し合われた時に、ローデシア空軍が停戦監視軍によって効果的に監視され、アフリカ人抵抗組織の安全が確保されることが、特別に条件としてあげられるほどだった。
第1飛行隊

- 編制
- 1951年3月
- 基地
- Thornhill
- モットー
- Speed and Courage(スピードと勇気)
- 任務
- 対地攻撃と空中防衛
- 機材
- Hawker Hunter FGA.9(9機)
- de Havilland Vampire FB9(8機)
第2飛行隊

- 編制
- 1951年
- 基地
- Thornhill
- モットー
- Strike from Above(上空からの一撃)
- 任務
- 飛行訓練、近接支援作戦時の対地攻撃、比較的軽装備な航空機に対する空中防衛
- 機材
- de Havilland Vampire T55(8機)
第3飛行隊

- 編制
- 1953年
- 基地
- New Sarum
- モットー
- Swift to Support(迅速援護)
- 任務
- 航空支援、落下傘部隊、兵站、航空機からの放送、捜索救援、VIPの搬送を含めた航空通信
- 機材
- Dakota DC-3(13機)
- Cessna 402(1機)
- Britten-Norman BN-2 Islander(4機)
- DC-7C(1機)
- Beechcraft Baron 55(1機)
第4飛行隊

- 編制
- 1956年1月
- 基地
- Thornhill
- モットー
- Seek and Strike(探し出して撃て)
- 任務
- 内部セキュリティ作戦での陸軍サポート
- 機材
- Aermacchi AL-60F-5(6機)
- Cessna 337(17機)
- SIAI-Marchetti SF-260W(14機)
- SIAI-Marchetti SF-260C(17機)
第5飛行隊

- 編制
- 1959年4月
- 基地
- New Sarum
- モットー
- Find and Destroy(見つけだし破壊せよ)
- 任務
- 爆撃と写真調査
- 機材
- English Electric Canberra B.2(8機)
- English Electric Canberra T.4(2機)
第6飛行隊

- 編制
- 1960年に編制
- 1963年に第5飛行隊へ吸収合併
- 1967年再編制
- 基地
- New Sarum
- モットー
- Aspire to Achieve(達成への熱望)
- 任務
- 当初の任務は、爆撃と写真調査
- 1967年、基礎訓練と対・反乱作戦の陸軍サポートへと変更
- 1977年以降、基礎訓練、軽襲撃、武器訓練へと変更
- 機材
- Percival Provost Mk52(13機)
第7飛行隊

- 編制
- 1962年2月28日
- 基地
- New Sarum
- モットー
- Fight Anywhere And Everywhere(何時如何なる場所でも戦闘態勢)
- 任務
- 部隊輸送、災害救援活動、ファイアフォースを含めた戦場での支援
- 機材
- Alouette V(34機)
- Alouette U(6機)
- Bell 205A(11機)
第8飛行隊

- 編制
- 1978年9月
- 基地
- New Sarum
- モットー
- By Night And By Day(昼も夜も)
- 任務
- 部隊の輸送、戦場サポート
- 機材
- Bell 205A
Police Reserve Air Wing
ポリス・リザーブ・エア・ウイング(Police Reserve Air Wing, 以下PRAW)は、ブリティッシュ・サウス・アフリカ・ポリスの航空部隊で、自家用飛行機を所有している者を、予備警察官として採用し、編成した部隊だった。
PRAWは、警察所属の部隊だったが、配属されたのは空軍基地であり、ローデシア空軍の命令に従い、偵察、探索、負傷者の後送などの任務を実施していた。
Internal Affairs Air Wing

インターナル・アフェアーズ・エア・ウイング(The Department of Internal Affairs Air Wing, 以下Intaf Air Wing)は、ローデシア内務省軍の航空部隊で、数種類の小型セスナ機を装備して、偵察や負傷者の後送、補給などの任務に従事していた。
アフリカ人解放組織が携帯型地対空ミサイルを装備するまで、Intaf Air Wingのセスナ機は民間機の塗装で運用されていたが、ローデシア航空のバイカウント機が撃墜されたため、Intaf Air Wingのセスナ機にも軍用機の塗装が施されるようになった。
ローデシア紛争末期には、Intaf Air Wingは、飛行中に地上のゲリラ部隊から攻撃を受けるだけでなく、滑走路に仕掛けられた地雷によって、少なくとも1機の航空機が破壊されている。このように、ゲリラ部隊はローデシア軍の滑走路にまで浸透していた。
ローデシアの海軍
Marine Division

ローデシアは内陸国であったため、海軍は所有していなかった。しかし、ローデシアはザンビアとの国境には、カリバ湖という大きな湖が存在していた。
そのため、ブリティッシュ・サウス・アフリカ・ポリスは、自家用ボートを所有している者を、予備警察官として採用し、マリーン・ディビジョン(Marine Division)と呼ばれる水上部隊を編成しており、別名「ローデシア海軍」と呼ばれていた。
この、マリーン・ディビジョンは、ザンベジ川のカリバ湖でパトロール任務に就いていた。その他にも、ローデシアSASがモザンビークのカボラ・バッサ湖で、カヌーを使用した水上作戦を実施している。
ローデシアの警察
British South Africa Police

ブリティッシュ・サウス・アフリカ・ポリス(British South Africa Police, 以下BSAP)は国家憲兵にあたる部隊で、1894年に編制されたマタベレランド植民地警察に起源を持ち、第一次マタベレ戦争と第二次マタベレ戦争では、治安維持の主力を務めた。また、第一次世界大戦や第二次世界大戦にも参加している。
BSAPはイギリスの警察システムを参考に編制されていたが、BSAPはそれを更に発展させたため、王室カナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police, 略称RCMP)に似通った組織になっていた。
イギリスからの一方的独立宣言後も、部隊名からブリティッシュ(British)は外されなかった。部隊のモットーはラテン語で「Pro rege, pro patria, pro lege」で意味は「王と国、そして法のために」である。
BSAPはローデシアの国自体よりも歴史が古く、部隊の規模はローデシアの全ての軍事組織中、最大であり、隊員数は正規隊員11,000名(60%がアフリカ人)、予備役隊員35,000名(大多数が白人)だった。また、1973年7月からは、兵役義務としてBSAPに勤務することが可能となった。

BSAPの徽章には、槍で刺されても闘うライオンがデザインされている。また、BSAPの制服や装備には、青色が多く使われていた。BSAPには、女性隊員も在籍しており、グレーのワンピースと帽子が女性隊員の制服だった。
BSAPには特色のある部隊が多く所属しており、その中には、対ゲリラ戦の訓練を受けた騎馬警察隊や、航空部隊、水上部隊も存在していた。
また、BSAPは警察なので対ゲリラ戦以外にも、刑事事件の捜査や交通取締り、などといった一般的な警察の職務も遂行していた。
Police Anti Terrorism Unit

ポリス・アンチ・テロリズム・ユニット(Police Anti Terrorism Unit, 以下PATU)は、BSAPに所属する対ゲリラ部隊で、ビル・ベイリー主任警視の発案の発案により、元ローデシアSAS隊員のグレッグ・シーキング捜査官の協力の下で設立された。設立当初はトラッカー・コンバット・チームと呼ばれていたが、1966年8月1日に、ポリス・アンチ・テロリズム・ユニットの名称が与えられた。部隊章はヒョウの足跡で、1973年に採用された。
PATUの発足当初の隊員は32名だった。このように隊員数が少なかった理由は、PATUの選抜基準が厳しく、訓練内容はローデシアSASに準じたものだったからである。その後、PATUには予備警察官も編入され、1970年には隊員数は1000名を超えた。
部隊発足当初のPATUは、ザンベジ渓谷で作戦を実施しており、装備はBSAPの青色の制服を着用し、旧式のリー・エンフィールドNo.4ライフルを装備していたが、後には、他の戦闘部隊と同様に、PATUにもFN FALや迷彩服が支給された。
PATUは優秀な部隊であったが、1981年7月31日に解散し、部隊の指導を行っていたシーキング捜査官も退職した。
Police Urban Emergency Unit
ポリス・アーバン・エマージェンシー・ユニット(Police Urban Emergency Unit, 以下PUEU)は、アメリカの警察に設置されている特殊火器戦術部隊(Special Weapons And Tactics)と同種の部隊であり、都市における立て籠もりなどの凶悪犯罪や航空機に対するハイジャックに対処するため、1975年に設置された。
PUEUは少人数で編成されており、基地はソールズベリー、ブラワヨ、グウェロ、ウムタリに設置された。PUEUの装備は青色に統一され、防弾ベストやガスマスクも装備していた。PUEUの部隊章は、UZIにとまったミミズクだった。
Mounted Unit

マウンテッド・ユニット(Mounted Unit)は、BSAPに所属する騎馬警察隊で、対ゲリラ戦を目的として編制された。最初にマウンテッド・ユニットが配備されたのは、プラムトリー地域で、ボツワナ国境で作戦を実施した。
この騎馬警察は、車両によるパトロールよりも静かに行動することが出来たため、ゲリラの探索に効果を発揮した。また、警察官は馬上に位置することで、敵ゲリラに対して心理的に優越することが出来た。マウンテッド・ユニットは、その後、サポート・ユニットに統合された。
Support Unit
サポート・ユニット(Support Unit)の起源は、1918年に結成されたアスカリ中隊まで遡る。アスカリ中隊は、ローデシア国外から流入したアンゴニ族やニヤサ族などの、アフリカ人によって結成されており、総督官邸の警護や式典におけるパレードが主な任務だった。
サポート・ユニットの兵力は30個中隊と1個騎馬中隊だった。サポート・ユニットの愛称は「ブラック・ブーツ」で、これはアスカリ中隊時代の隊員が着用していた黒いブーツが、非常に目立ったためだった。部隊章は鷲がデザインされた物で、1973年に制定された。
Field Reserve
フィールド・リザーブ(Field Reserve)は、予備警察官によって編成された部隊で、重要地区の警護、車列警護、農場防衛などが任務だった。こういった、予備警察官による部隊には、スペシャル・リザーブ(Special Reserve)も存在しており、これは、予備警察官が自分の居住地域を、一定期間パトロールするものだった。また、発電所などの重要拠点をパトロールする者は、キー・ポイント・スペシャル・リザーブ(Key Point Special Reserve)と呼ばれていた。
Civilian African Tracking Unit
シビリアン・アフリカン・トラッキング・ユニット(Civilian African Tracking Unit, 以下CATU)は1970年代後半に、ローデシア領内へのゲリラ部隊の侵入を防ぐために編制された部隊だった。この部隊はジャンガーン族(Shangaan)の伝統的な追跡技術によって、ゲリラ部隊を追跡した。部隊はスティックで行動し、スティックは2〜3名の白人将校と6〜8人のアフリカ人追跡者で編制された。
Criminal Investigation Department
クリミナル・インベスティゲーション・デパートメント(Criminal Investigation Department, 以下CID)は、一般の警察官から選抜された隊員により編成された、凶悪犯罪や重大事件に対処するための捜査部門だった。このCIDから選抜された隊員によって、BSAPの情報機関であるBSAP特別局が編成されていた。
ローデシアの情報機関
Central Intelligence Organisation
ローデシア中央情報局(Central Intelligence Organaization, 以下CIO)は、文民によるローデシアの政府機関で、ローデシア警察治安部と密接な連携を取りつつ、国外での諜報活動と国内での防諜活動を行っていた。局長はケン・フラワー(Ken Flower)だった。
ローデシア軍が越境作戦を実施する場合は、必ずCIOの承認が必要だった。そのため、ローデシアSASと特に密接な共同作戦を展開しており、情報を提供するだけに留まらず、時には越境任務を行うローデシアSASにローデシア情報局の局員が同行する場合もあった。
1977年以降には、「モザンビーク解放戦線(FRELIMO)」の政権転覆を謀るため、ラジオ局「アフリカの声」を設立し、架空の組織「モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)」への参加を呼びかける放送を送信していた。
CIOの謀略放送によって、大勢のFRELIMO党員が転向しRENAMOへ参加した。しかし、実際にはRENAMOなどという組織は存在しなかったため、CIOは転向してきたFRELIMO党員を急遽組織化する必要性が出てしまった。
CIOは、ローデシア領内にRENAMOの訓練キャンプを設置し、元ローデシアSASの将兵を教官として派遣して訓練を実施し、1978年にはモザンビークへの越境攻撃を開始、1979年にはローデシアSASに訓練を引き継いだ。
CIOは、生物化学兵器の使用にも深く関わっていた。1970年代半ば頃には、ローデシア大学の医師や科学者を勧誘し、アフリカ人解放組織に対して使用する生物化学兵器の種類の選定と実験を依頼していた。1975年にはローデシア北東部のマウント・ダーウィンにあるセルース・スカウツの基地において、政治犯を対象に生物化学兵器の人体実験を実施。1976年にはCIOとセルース・スカウツが南アフリカ軍と共同して、生物兵器を目標地域で実際に使用した。
ケン・フラワー局長は、イギリス情報局秘密情報部(Secret Intelligence Service)のエージェントだったと言われている。ケン・フラワーによると、1970年代後半以降のローデシア軍は「負け戦」を戦っていたと言う。
Rhodesian Intelligence Corps
ローデシア軍情報部(Rhodesian Intelligence Corps, 以下RIC)は、その名の通り、ローデシア軍の諜報機関である。英領南ローデシア時代には、ローデシア軍はイギリスから情報提供を受けることが出来た。しかし、1960年代に入ると、ローデシアがイギリスからの一方的な独立宣言を行った場合、イギリスからの情報提供を受けることが出来なくなることが予想された。
そのため、ローデシア軍は自前の諜報機関を持つ必要性に迫られた。それまでは、各旅団司令部の情報将校が情報収集にあたっていたが、より高度な情報収集能力を備えた、専門家の集団を育成するため、ローデシア軍は1960年代には多数の将校を集め、秘密裏に訓練を開始した。
このように、情報収集にあたる将校の訓練を開始したものの、諜報機関を何も無い状態から作ることは非常に困難であった。そのため、RICは設立当初、十分な情報収集を行うことが出来なかった。しかし、訓練による情報将校の質的向上、情報提供者など情報網の整備、ゲリラ部隊基地からの情報文書の入手などにより、情報収集能力を高めることに成功した。
Special Branch
スペシャル・ブランチ(Special Branch, 以下SB)は、BSAP所属の公安部門を扱う情報機関(公安警察)であり、CID(Criminal Investigation Department)から選抜された隊員によって編成されていた。SBは、CIOの指揮下に置かれて、情報収集を実施しており、陸軍が独自の情報機関である、RICを編成した後も、SBは独自の情報収集活動を続けていた。
また、SBはローデシアSASや陸軍予備役と共同して、偽ゲリラ部隊である「トラッカー・コンバット・ユニット」を編成した。この部隊は、後にセルース・スカウツとなった。そのため、SBとセルース・スカウツは密接な協力関係にあり、共同作戦を実施し、ゲリラ兵の尋問や説得に活躍した。
南アフリカの軍事介入
South African Police
南アフリカ警察軍(South African Police, 以下SAP)は、国家憲兵にあたる南アフリカの準軍事組織で、1655年にケープ植民地で移民達により結成された準軍事的な組織に起源を持ち、第二次世界大戦にも参加し、北アフリカで戦闘を行った。
南アフリカ軍とSAPは非常に密接な協力関係にあり、1948年には警察と軍の関係を強化する法律が制定された。また、1958年の警察法改正により、それまでよりも強い権限が、SAPに与えられることになった。
ローデシア紛争が激化する中で、ZAPUと南アANCの軍事部門「民族の槍(Umkhonto we Sizwe, 以下US)」が軍事同盟を結び、ローデシア経由で南アフリカへゲリラ部隊を侵入させようとした。それに対抗するため、SAPは1967年8月頃からローデシアに派遣されることになった。こうして、ローデシアに駐留したSAPの人員は、推定1200人と言われている。
ローデシアに派遣されたSAPは、ローデシア軍が装備していなかった装甲車やヘリコプターなどを装備するなど、ローデシア軍よりも装備が優れており、ローデシア軍を大いに助けることとなった。しかし、このSAPの派遣は、国際社会から厳しく非難された。
South African Air Force
南アフリカ空軍(South African Air Force, 以下SAAF)は、ローデシア空軍との合同作戦を実施していた。モザンビークやザンビアを爆撃するローデシア空軍を支援するため、SAAFは偵察や監視、兵站増強などの分野で、ローデシア空軍を支援していた。