ローデシア軍の国内作戦
Operation CAULDRON
コールドロン作戦は、1968年にZIPRAが実施した、大規模なローデシア侵攻作戦に対する、ローデシア軍の反攻作戦だった。
1968年にZIPRAのゲリラ部隊は、ザンベジ渓谷からローデシアへの侵入を果たし、政府施設と軍事施設の攻撃を実施した。ゲリラ部隊は、わずかな爆弾を爆発させただけで、あまり成果を上げなかった。この攻撃に対応して、ローデシア軍は、警察と軍が共同して作戦を実施し、ローデシア国内に侵入したゲリラ部隊を追跡し殲滅した。
Operation HURRICANE
ハリケーン作戦は1972年12月に、ローデシア北東部のモザンビーク国境付近で実施された、大規模な攻勢作戦である。
ハリケーン作戦は、ゲリラ攻撃によりセンテナリー農場にて、白人の幼女が殺害されたことに端を発して実施された作戦で、長期間に渡って作戦行動が続いたため、通称、3年戦争と呼ばれた。
ハリケーン作戦は長期に及んだため、多くの犠牲者を出すこととなった。268名のローデシア軍兵士が戦死し、79名の白人市民と1394名のアフリカ人市民が犠牲となり、総勢では4000名もの死者を出す結果となった。
Operation THRESHER

スラッシャー作戦は1976年2月に、ローデシア東部のモザンビーク国境付近の東部ハイランドで実施された、大規模な攻勢作戦である。
1976年初頭、ZANLAはローデシア軍との正面衝突は避け、農場や民間施設、民間車両などのいわゆるソフトな標的に集中して、テテ州、マニカ州、ガザ州の戦線で、戦闘を再開した。
こうした、増加する襲撃に対抗するため、新作戦地域「スラッシャー作戦」、「リパルス作戦」、「タンジェント作戦」が設定されたのだった。
Operation REPULSE
レパルス作戦は1976年5月に、ローデシア南東部のモザンビーク国境付近で実施された、大規模な攻勢作戦である。
レパルス作戦の目的は、ローデシア南東部と南アフリカへの鉄道網を攻撃してくるゲリラ部隊を排除することにあった。
この作戦地域「レパルス」により、ローデシア軍は、ローデシアの生命線とも言える、南アフリカとの鉄道線を防御したのだった。
レパルス作戦には、2500名のローデシア軍兵士が投入され、推定16000名のゲリラ部隊と対峙していた。
Operation TANGENT
タンジェント作戦は1976年8月に、ローデシア西部マタベレランドのボツワナ国境付近で実施された、大規模な攻勢作戦である。
作戦地域「タンジェント」は、ビクトリア・フォールズおよび、ワンキーとボツワナ国境を防御する作戦だった。
この作戦により、ローデシア軍は、ザンビアからボツワナを経由して、ローデシア国内に侵入してくるゲリラ部隊を攻撃した。
このように、1976年には、ローデシアの東部、西部、北部に、それぞれ作戦地域が設定されたのだった。
Operation GRAPPLE
グラップル作戦は1977年8月に、ローデシア中央部にて実施された、大規模な攻勢作戦である。
Operation SPLINTER
スプリンター作戦は1978年6月に、ローデシア北西部のザンビア国境付近で実施された、大規模な攻勢作戦である。
スプリンター作戦は、ローデシア北西部、カリバ湖周辺から侵入してくるゲリラ部隊が増大したことに対応して実施された作戦で、カリバ湖地区に厳戒令を発令して実施された。
1978年9月には、カリバから飛び立ったローデシア航空の旅客機が、ZAPUにより撃墜されるなど、ローデシア北西部でのゲリラ活動が活発化していた。
Operation QUARTZ
クォーツ作戦は、1980年3月にローデシア軍が、ローデシア国内で計画した暗殺作戦である。
ランカスターハウス会議による停戦の実現により、ローデシア・ジンバブエ政府は解消され、暫定期間の後に、全当事者参加による総選挙が実施されることとなった。そのため、近隣諸国からアフリカ人解放組織のゲリラ兵が、ローデシアに帰国した。アフリカ人解放組織の指導者達もローデシアに帰国することとなり、その集合場所には、ローデシア大学が選ばれた。
クォーツ作戦は、この帰国したアフリカ人解放組織の指導者達を、一挙に暗殺することを狙う作戦としてローデシアSASにより立案された。この作戦では、T-55戦車を装備した、ローデシア・アーマード・カー・レジメントのE中隊が、8両のT-55戦車でローデシア大学構内に突入、その機に乗じて、ロバート・マッケンジー大尉のローデシアSAS・C中隊がゲリラを掃討、リッチ・スタナード中尉の別働隊が、ムガベの自宅を急襲する計画だった。
何度も訓練が繰り返されたが、ローデシア統合作戦本部から、作戦の実行命令が下されることはなく、作戦は中止となった。
ローデシア軍の越境作戦

Operation BIG BANG
ビックバン作戦は、1974年8月〜10月にかけて、ローデシア軍が実施した作戦である。この作戦はクリス・ショーレンバーグ中尉とガース・バレット大尉が率いる部隊によって実施された。
その頃、ZIPRAは、それまで行っていた、100名以上の部隊を編制して攻撃を開始する戦術から、部隊を少人数に分け武器を隠す集積所を作る、ゲリラ戦へと戦術を変えていた。そのため、ローデシアSASは、ゲリラ部隊の武器集積所を探していた。
ローデシアSASは、ザンビア国内で、ZIPRAの大規模集積基地を発見し、これを爆破することに成功する。後に判ったことだが、爆破されたZIPRAの大規模集積基地は、ZIPRAの中央兵站基地で、マタベレランド部族保護地区における、作戦を指揮する拠点だった。この基地が破壊された打撃から、ZIPRAが回復するのには、6ヵ月の時間を要した。
Operation TRAVELER
トラベラー作戦は、1976年4月にローデシア軍が、モザンビーク国内で実施した作戦である。
Operation DETACHMENT
デタッチメント作戦は、1976年5月にローデシア軍が、モザンビーク国内で実施した作戦である。
Operation LONG JOHN
ロング・ジョン作戦は、1976年6月にローデシア軍が、モザンビーク国内で実施した作戦である。
Operation ELAND
エランド作戦は、1976年8月にセルース・スカウツが、モザンビーク国内で実施した作戦である。ローデシア空軍は、モザンビーク国内に、ZANLAの大規模な訓練基地を発見した。その報せを受けた、セルース・スカウツは、即座にフェレット装甲車とウニグモ・トラックによる車両部隊を編制し、越境攻撃を開始した。
この作戦では、FRELIMOの補給部隊に偽装したセルース・スカウツの車両部隊が、ZANLAの訓練基地に侵入。歓迎のために出てきた、ZANLAのゲリラ兵士に対して、セルース・スカウツは攻撃を仕掛けた。この攻撃により、セルース・スカウツは、ZANLA兵士を1000名以上殺害した。
Operation MARDON
マードン作戦は、1976年10月から12月に、ローデシアSAS、ローデシアン・ライト・インファントリー、グレイズ・スカウツなどの部隊が参加し、モザンビーク国内で実施された作戦である。
1976年10月28日から、ジュネーブでローデシア政府と黒人抵抗組織との間で、和平交渉が行われていた。その間に、多数のゲリラ部隊がローデシア侵入を果たす。
作戦の目的は、モザンビークから、ZANLAのゲリラ部隊が侵入するのを塞き止めるため、モザンビークのテテ州北部とガザ州南部を2方面から攻撃するものだった。
この長期に渡る作戦で、ローデシア軍は、ZANLAのゲリラ部隊だけではなく、FRELIMOやタンザニア軍部隊とも戦闘を行ったが、ローデシア軍が勝利した。
Operation IGNITION
イグニッション作戦は、1976年11月にローデシア軍が、ボツワナで実施した作戦である。
Operation COCKLESHELL HEROES
コクルシェル・ヒーローズ作戦は、1977年1月17日にローデシアSASが、モザンビーク国内のカボラ・バッサ湖で実施した、水上作戦である。
この作戦は、ロバート・マッケンジー大尉が率いる12名のパトロール隊によって、6週間に渡って実施され、FRELIMOに大きな被害を与えた。この戦果により、コクルシェル・ヒーローズ作戦の有効性が認められ、パートUとパートVがローデシアSASとセルース・スカウツによって実施された。
Operation CHIOCOT
チョコ1号作戦は、1977年3月22日にローデシアSASが、モザンビーク北部のテテ州にある町、チョコ郊外で実施した。
作戦の目的は、チョコ郊外の基地に駐屯する、100名のZANLA守備隊の制圧だった。デーヴ・ドッドソン大尉率いる、22名の隊員により襲撃が行われ、ZANLA守備隊は壊滅し、基地を放棄した。この作戦で、ローデシアSASは1名の戦死者を出した。
Operation CHIOCOU
チョコ2号作戦は、1977年5月にローデシアSASとローデシアン・ライト・インファントリーによって、モザンビーク北部のテテ州にある町、チョコで実施された。
作戦の目的は、チョコの町を完全に破壊することだった。なぜなら、チョコ1号作戦で、チョコ郊外の基地を放棄したZANLAがFRELIMOとともに、チョコを制圧していたからだった。
この作戦はデーヴ・ドッドソン大尉率いる16名により実施された。この戦闘には、ZANLAとFRELIMOに、タンザニア軍も加わり激戦となり、分遣隊のマッキントッシュ中尉が負傷し後送されたため、ロバート・マッケンジー大尉が交代して指揮にあたった。
そして、負傷者を出しながらも、ローデシア軍が勝利した。そして、チョコの町はローデシア軍により、完全に破壊され、2度と復興されることは無かった。
Operation AZTEC
アズティック作戦は、1977年5月から6月にかけて、セルース・スカウツとローデシアン・ライト・インファントリーが共同して、モザンビーク国内で実施した作戦である。
作戦の目的は、モザンビーク領内に点在するZANLAの基地を同時に攻撃することだった。作戦の指揮は、元アメリカ海兵隊でベトナム戦争従軍歴を持つ、ジョン・マーフィー大尉が執った。この作戦では機動力が要求されるため、セルース・スカウツは、ウニグモ・トラックを改造して製造した、ピッグ装甲車を使用した。
Operation MELON
メロン作戦は、1977年11月1日に、ローデシアSASがモザンビーク国内で実施した作戦である。作戦の目的は、モザンビークのマプート港から、マパイ市を通って、ローデシア南東の国境地帯へ向かう輸送部隊を攻撃するものだった。
この作戦はコリン・ウィリス大尉に率いられた15名の隊員によって実施された。この攻撃により、FRELIMOは、死傷者50名を出し、ソ連邦から供与された車両や武器・装備を破壊された。
Operation DINGO
ディンゴ作戦は、1977年11月23日に、ローデシアSASとローデシアン・ライト・インファントリーが、モザンビーク国内で実施した作戦である。
作戦の目的は、モザンビーク国内に存在する、ZANLAの大規模な2つの基地、チモイオとテンブエを攻撃することだった。チモイオ基地は巨大で、ZANLAのゲリラ兵士9000名が駐屯し、ZANLAの本部が置かれていた。テンブエ基地はカボラ・バッサ湖の北東に位置し、4000名のゲリラ兵士が駐屯していた。
この作戦はブライアン・ロビンソン少佐が率いるローデシアSASの隊員97名(ロバート・マッケンジー大尉も参加)と、ローデシアン・ライト・インファントリーの隊員48名により実施された。
まず、ローデシア軍はチモイオ基地を攻撃、2日間に渡って戦闘を継続し、ZANLA部隊を一掃し、ZANLAの武器・装備を破壊すると共に、ZANLAの書類を回収した。翌日には、ローデシア軍部隊は、テンブエ基地を攻撃し、ZANLA部隊を一掃した。この作戦の結果、ZANLAは2000名以上の兵員を失い、武器や装備を破壊された。また、ZANLAは作戦行動に関する書類を多数、ローデシア軍に押収された。
Operation ELBOW
エルボー作戦は、1978年6月にローデシアSASがザンビア国内で実施した作戦である。作戦の目的は、ZIPRAの輸送部隊に対する、待ち伏せ攻撃である。作戦は、ピーター・フリッツ大尉が率いる、B中隊の隊員12名によって実施された。この作戦により、ゲリラ部隊は69名が死亡した。
後に、襲撃現場を視察に訪れた、ZIPRAの上級司令官アルフレッド・マンゲナ司令官は、ローデシアSASが仕掛けた地雷により死亡した。マンゲナ司令官の死亡は、ZIPRAに大きな打撃を受けた。
Operation SNOOPY
スヌーピー作戦は、1978年9月20日に、ローデシアSASとローデシアン・ライト・インファントリーが、モザンビーク国内で実施した作戦である。
作戦の目的は、モザンビークのチモイオ・サークルと呼ばれる地域に存在した、兵員規模2000名のZANLA基地を攻撃することだった。
戦闘は3日間続き、FRELIMOも戦車や装甲車を繰り出し激戦となるが、最終的にはローデシア軍が勝利し、ZANLAは多数の兵員を失い、基地とキャンプも完全に破壊された。
Operation GATLING
ガトリング作戦は、1978年10月にローデシアSASとローデシアン・ライト・インファントリーによって、ザンビア国内で実施された作戦である。
作戦の目的は、ザンビア国内のZIPRA基地、3ヵ所を攻撃することである。この作戦により、ゲリラ部隊は1697名が死亡、約600名が負傷した。
Operation SPY
スパイ作戦は、1978年10月20日にセルース・スカウツによって、ザンビア国内で実施された作戦である。作戦の目的は、ザンビア国内のZANLA基地を攻撃することだった。
セルース・スカウツは、南アフリカとマラウイを経由して、隊員を送り込みZANLA基地の場所を確定。そのZANLA基地を、ローデシア空軍の、キャンベラ爆撃機による空爆で攻撃した。
ザンビア軍は、英国から供与されたレイピア地対空ミサイルを装備していたが、十分な訓練を受けていなかったため、キャンベラ爆撃機に反撃することが出来なかった。
Operation SHOVEL
シャベル作戦は、1978年12月15日にローデシアSASによって、モザンビーク国内で実施された作戦である。作戦の目的は、テテ飛行場にある、大規模な武器貯蔵所を、ZANLAが移動させることを、阻むことだった。
その手段として、ローデシアSASは、モザンビーク北部のベイラとモアティーズを結ぶ鉄道を切断することにした。そのため、メシトで川を渡る、鉄橋の爆破を計画する。この作戦はマッキントッシュ中尉が率いる20名のパトロール隊によて実施された。12月19日にローデシアSASは、鉄橋と列車を爆破しローデシアへ撤退した。
Operation INHIBIT
インヒビット作戦は、1978年12月17日にローデシアSASが、モザンビーク国内で実施した作戦である。作戦の目的は、ZANLAとFRELIMOのゲリラ部隊に対する、待ち伏せ攻撃である。作戦は、リッチ・スタナード中尉が率いる、C中隊所属の小隊が実施した。この作戦により、ゲリラ部隊は47名が死亡し、ローデシアSASはモー・テーラー伍長が死亡した。
Operation BUMPER
バンパー作戦は、1979年1月からローデシアSASが、モザンビーク国内で実施した作戦である。この作戦の目的は、ローデシア中央情報局から、モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)の訓練を引き継ぎ、RENAMOともに作戦行動を行うことだった。
最初に行われた、ローデシアSASとRENAMOの統合作戦は、モザンビークのマヴジにある水力発電所への攻撃で、この攻撃により、モザンビークの広い地域への電力供給が絶たれた。その後、スルヴオ山の遠距離通信センターや、ベイラ港の大燃料貯蔵庫など、多くの標的を攻撃し、戦果をあげた。
バンパー作戦は、1980年にローデシア紛争の停戦が宣言され、英国の停戦監視部隊が到着するまで継続された。この、RENAMOへの援助は、南アフリカが引き継ぎ、FRELIMOを苦しめ続けた。
Operation NEUTRON
ニュートロン作戦は、1979年3月にローデシアSASが、モザンビークの町チモイオの近郊で、実施した作戦である。作戦の目的は、チモイオから約15kmに位置するZANLAの巨大基地を捜し出して攻撃することだった。
この作戦はリッチ・スタナード中尉が率いる6名の隊員によって実施された。ローデシアSASは、ZANLAの巨大基地を捜し出し、協同作戦本部に報告したところ、空爆を実施することに決定した。3月17日に空爆は実施され、ローデシアSASが前進観測員を務め、作戦は大成功に終わった。
しかし、前進観測員の存在に気付いた、FRELIMOにより、ローデシアSAS隊員は攻撃を受ける。そのため、1名の負傷者を出すも、ローデシアSAS隊員は無事に帰還した。
Operation PETAL
ペタル作戦は、1979年の3月から4月にセルース・スカウツが、ボツワナ国内で実施した作戦である。この作戦の目的は、ボツワナ国内にいるZANLA上級将校の誘拐だった。
当時、ボツワナのセレツェ・カーマ大統領は、ZANLAにボツワナ国内で武器所持を禁止していた。そこで、セルース・スカウツは、ボツワナ軍に変装し、家宅捜索を実施し、武器不法所持の容疑で、ZANLA将校を逮捕しローデシアへ連行した。
ローデシアに連行されたZANLA将校は、BSAP特別局(Special Branch)に引き渡され、拷問を含む尋問を受けた。
Operation DINKY
ディンキー作戦は、1979年4月12日にローデシアSASとセルース・スカウツが、ザンビア国内で実施した作戦である。作戦の目的は、カザングラ・フェリーの破壊だった。
このフェリーは、ザンビアのカザングラとボツワナの間を就航しており、鉄道以外で、ザンビアから南方の国々に抜けるための唯一のルートだった。この作戦はピート・フリッツ大尉が率いる12名のSAS隊員で実施された。作戦の結果、カザングラ・フェリーは爆破され、沈没した。
ローデシア軍情報部は、このフェリーを使って、ZIPRAがゲリラ部隊の兵員と物資を、ザンビアからボツワナに送り込んでいると考えていた。この、ボツワナに送り込まれたゲリラ部隊が、陸路でローデシアのマタベレランドに侵入しているのだった。
Operation BASTILLE
バスティーユ作戦は、1979年4月12日にローデシアSASがザンビアの首都ルサカで実施した作戦である。この作戦の目的は、ZAPUの党首ジョシュア・ヌコモ暗殺と、「解放センター」と呼ばれるZIPRA司令部の破壊だった。
ローデシアSASは、ヌコモの自宅と、解放センターを襲撃するも、ヌコモが不在だったため暗殺に失敗する。だが、解放センターへの襲撃は成功し、解放センターは完全に破壊された。
ヌコモ暗殺が失敗した原因は、英国がローデシア協同作戦本部に工作員を潜入させており、暗殺計画を知った英国が、ヌコモに暗殺計画を報せ、自宅から待避させていたためだった。
ヌコモ暗殺には失敗したが、この作戦のため、ZIPRAのローデシア侵入を防ぐことに成功し、ローデシアは4月17日に総選挙を実施することが出来た。この総選挙は投票率64.5%に達し、スミス政権の傀儡と言われる、ムゾレワ政権が誕生した。
Operation CARPET
カーペット作戦は、1979年6月26日にローデシアSASがザンビア国内で実施した作戦である。作戦の目的は、ローデシア国境からザンビアへ198km侵入して、ZIPRA内で、ロシアから訓練を受けている国家安全治安局(NSO)幹部を捕らえることだった。
作戦はマーティン・ピアース大尉の指揮のもと、リッチ・スタナード中尉とマイク・バーロー中尉が突撃班を率いて実施された。作戦は成功し、KGBの訓練を受けた、NSO情報部の副部長アレグザンダー・ブリスク・ヴサを捕虜にすることに成功した。また、押収した書類から、ZIPRAの活動に関する夥しい量の情報と、ローデシア国内で活動するNSOのスパイ組織の全貌が明らかなった。
この戦果によって、カーペット作戦は、ローデシアSASが実施した作戦の中でも、もっとも輝かしい功績と言われている。ちなみに、この作戦で、ローデシアSASは死者1名、負傷者1名の損害を出した。
Operation CHICORY
チコリ作戦は、1979年7月1日にローデシアSASがザンビア国内で実施した作戦で、カーペット作戦の継続作戦である。作戦の目的は、ザンビア国内に存在するZIPRAの大規模集積基地「JZ」の破壊である。
カーペット作戦で捕虜にした、NSO情報部の副部長アレグザンダー・ブリスク・ヴサを長時間尋問した結果、ZIPRAの大規模集積基地「JZ」の存在が明らかになる。
ローデシア軍は、ソ連邦や東ドイツからの物資を、リビア航空機が、アンゴラからザンビアへ夜間空輸していたことは掴んでいたが、ZIPRAの物資貯蔵場所を特定することが出来ずにいた。この、大規模集積基地「JZ」こそが、ローデシア軍が血眼になって探していた、ZIPRAがソ連邦や東ドイツからの物資を貯蔵している基地だったのだ。
この作戦により、ZIPRAの大規模集積基地は完全に破壊され、100トンを越える武器・弾薬・装備に加え、多数の車両が破壊された。この打撃により、ZIPRAは、物資の再補充が済むまで、ローデシア侵攻計画を中止せざるを得なくなった。
Operation URIC
ユリック作戦は、1979年9月5日にローデシアSAS、ローデシアン・ライト・インファントリーが、モザンビーク国内で行った作戦である。この作戦は、ローデシア軍による、モザンビークに対する大規模攻撃として計画された。
作戦の目的は、モザンビーク南部ガザ州の鉄道と道路を使用不能にし、マパイ市にあるFRELIMOとZANLAの中心基地を破壊することだった。
ローデシア軍による、マパイ基地への攻撃は、FRELIMOとZANLAの激しい反撃で失敗するが、ローデシア軍工兵隊による、ガザ州の鉄道と道路に対する、大規模な破壊活動は成功し、モザンビーク経済に大きな打撃を与えた。
Operation CHEESE
チーズ作戦は、1979年9月3日にローデシアSASがザンビア国内で実施した作戦である。作戦の目的は、ザンビアの、とうもろこし輸入路を、ローデシアを通過する鉄道のみにすることで、ザンビア経済に打撃を与えることだった。
そのため、ローデシアSASは、ザンビアとタンザニアを結ぶ鉄道を寸断するため、チャンベシ川に架かる2本の橋を爆破することにする。この作戦の本隊は、ボブ・マッケンジー大尉率いる12名だった。爆破する橋まで、ローデシア国境から320kmの距離があったが、ローデシアSASは2本の橋の爆破に成功し、無事帰還した。
作戦の結果、ザンビア行きの物資1万8千トンが、タンザニアのダルエスサラーム港で立ち往生し、ザンビア産の銅、1万トンは輸出することが出来なかった。これにより、ザンビア経済は打撃を受け、カウンダ大統領はローデシア政府との交渉を開始せざるを得なくなった。
Operation NORAH
ノラ作戦は、1979年9月12日にローデシアSASとモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)が、モザンビークのシルヴオ山で実施した作戦である。
この作戦は、アンドルー・サンダース中尉が率いる、ローデシアSASとRENAMOの兵士32名により実施された。作戦の目的は、シルヴオ山にある、FRELIMOの遠距離無線通信センターの破壊だった。作戦は成功したが、FRELIMOの部隊から厳しい追撃を受ける。だが、この追跡もうまくかわして、ローデシアSASとRENAMOは無事にローデシアへ帰還した。
Operation TEPID
テピッド作戦は、1979年10月にローデシアSASとローデシアン・ライト・インファントリーによって、ザンビア南東部ルスト地域で実施された作戦である。
作戦の目的は、ルスト地域にあるZIPRA基地への攻撃だった。このZIPRAの基地は重武装が施されており、ZIPRA正規兵240名が駐屯していた。この作戦でローデシアSASの指揮を執ったのは、ロバート・マッケンジー大尉だった。
ローデシア軍は、同基地に対して2回の攻撃を実施したが、ZIPRA正規兵の精度が高く、激しい反撃で2回とも失敗に終わった。しかし、ローデシア軍部隊の攻撃を退けたZIPRA部隊も、ローデシア空軍の空爆により損害を受けており、また、補給も受けることが出来なかったため、ZIPRA部隊150名は夜陰に紛れて撤退した。
撤退するZIPRA部隊を、ローデシアン・ライト・インファントリーの待ち伏せ部隊は捕捉していたが、敵部隊の規模が大きかったため、交戦を避けて撤退を許した。
翌朝、ZIPRAの放棄した基地にローデシア軍が入ったところ、この基地は、それまでのゲリラ部隊の基地とは違い、非常に高度な築城技術によって塹壕が掘られており、大隊本部と小隊をつなぐ電話システムまで設置されていることが解った。
Operation DICE
ダイス作戦は、1979年11月16日にローデシアSASがザンビア国内で実施した作戦である。その頃、ZIPRAは通常部隊2万5千名を、ルサカ郊外に集結させ、ローデシアに侵攻する作戦を実行しようとしていた。
作戦の目的は、ZIPRAの部隊が集結するのを妨害し、ローデシアへの侵攻を妨害することだった。そのため、集結地点へのルートにある橋梁を破壊して、ZIPRAの部隊が集結出来ないようにする、というものだった。
この作戦で、ローデシアSASは10本の橋梁を破壊した。ロバート・マッケンジー大尉が率いる部隊も、2本の橋梁を破壊しザンビアとタンザニアの連絡路を分断した。
この作戦の被害により、ZIPRAは集結地点に兵力を集中させることが出来ず、ローデシアへの侵攻は実施出来なかった。
この、ダイス作戦での破壊行為により、ザンビアはタンザニアやマラウイに通じる、道路や鉄道も破壊された。また、ローデシアに、モザンビークとの物資輸送も妨害された。そのため、ザンビアは、経済的に大きな打撃を受けた。
これにより、ザンビアのケネス・カウンダ大統領は、ローデシアへの侵攻を断念し、ZIPRAの指導者ジョシュア・ヌコモにランカスター・ハウス協定の会議に出席するよう、圧力を掛けたと言われている。
Operation VODKA
ウォトカ作戦は、1979年12月にローデシア軍が、ザンビアで実施した作戦である。